「学校的社会化」とは何か
学校的社会化研究の目的は、簡潔に言えば「子どもが児童になる」過程の解明ですが、こうしたテーマに関心を持ち始めたきっかけの一つは次のような小学校の朝礼場面に出会ったことにあります。10年以上前に書いた文章ですが、再掲してみます。
もう20年以上も前になるが、調査目的である小学校を訪れ、校庭での全校朝会を、校舎の2階から観察していた時の小学生の様子が忘れられない。1年生や2年生という低学年児童が中央に位置し、その周囲を3年と4年、そして一番外側に5年と6年が位置するという並び方であったが、1年生は、校長先生が話をしている時も、じっとして聞くことができずに、まさに「うごめいている」という表現がぴったりの様子であった。それに対して高学年、特に5年6年生は、身じろぎもせず「休め」の姿勢を保っており、「気をつけ・礼・休め」という号令にも、皆一斉に反応していた。それに対して低学年児童、特に1年生は、終始「ぐにゃぐにゃ」という状態でうごめき続けていた(北澤毅編 2007,『リーディングス 日本の教育と社会 第9巻 非行・少年犯罪』日本図書センター、「はしがき」より抜粋)。
文中にある公立小学校の朝礼は、今から30年以上も前の1980年代のことになりますが、私が描いた朝礼時の児童の様子に古さを感じるでしょうか。それとも、今でも変わらないと思うでしょうか。
私自身は、小学校に入学したばかりの1年生の教室を初めて観察したのは2008年4月でしたが、そこで展開されている光景は、新鮮さと奇妙さと懐かしさの入り交じったとても興味深いものでした。登校時間や給食時間は定刻通りでしたが、時間割やチャイムに縛られることなく、その時々の課題達成状況に応じて休憩時間が設けられるという、柔軟な学級運営がなされていました。しかし同時に、その時々の状況に応じて、児童に対する課題は明確に与えられているようにも見えました。その課題とは、教科的知識の習得ではなく、トイレの使い方や校庭での遊び方、そしてなにより授業中の振る舞い方といった、もっぱら行動様式に関する事柄です。
授業中は椅子に座っていなければならず、勝手に立ち歩いてはいけない。発言したい児童は挙手をする。教師から指名された時にのみ発言が許される。発言を求められていない時の児童の発話は「無駄話」であり厳しく規制される。授業の開始時には全員起立し、日直児童らの「これから一時間目の国語のお勉強を始めます」などという挨拶に続いて、児童全員が「よろしくお願いします」と独特の抑揚をともなった一斉発話をしながら礼をし、それができたら一同着席する。などなど、学校空間のなかで児童に要求される行動様式は、調査者としてあらためて観察してみるとかなり奇妙なものに見えてきました。
というのも、家庭での親子の会話場面で、親の許可がなければ子どもは発言できないといった親子関係は想像できませんし、そもそも家庭内での子どもの発話に「無駄話」といった評価が下されることはないはずです(「うるさい!」などと怒られることはあるでしょが)。とするなら、なぜ学校空間のなかでは、「発言の許可」といった非対称的な教師-児童関係が自然さを装いつつ日々繰り広げられているのでしょうか。さらには、冒頭に紹介したような全校朝会も奇妙な光景に思われてなりません。なぜなら、皆が思い思いの場所に立つなり座るなりして静かに校長先生の話を聞くことができるなら、「話す-聞く」関係は成立するでしょうし内容も伝わるはずです。少なくとも、校長先生の話を児童達に聞かせることが目的だとしたら、学年や学級毎に整然と整列する必要はないように思われます。むしろ、整列することに気をとられ話を聞くことが疎かになるという、表現と行為のジレンマ状況に陥る児童もいるはずです。ですから、校長先生の話をしっかりと聞いて理解することが目的だとすれば、整然と整列する必要はないかもしれないということです。
だとすれば、なぜ小学校や中学校では、児童・生徒をかくも「整列」させることに躍起となるのか、という問いが成立するのではないでしょうか。おそらくそこでは、「話す-聞く」関係の成立とは別の「何か」が求められているからだと思いますが、こうした事態は授業場面でも頻出します。授業場面もまた、ただ単に「教える-学ぶ」関係だけで成立しているわけではなく、それとは別の「何か」、例えば私達が隠れたカリキュラムなどと名づけるような学校に独特の思考様式や行動様式の習得が求められているように思われます。
そして「学校的社会化」研究の主要な目的の一つは、その「何か」を明らかにすることを通して、「学校教育」や「児童」の特徴や存在意義を明らかにするとともに、それらをめぐる多様な問題について何らかの見通しと対応策を提示することにあります。もちろん研究には、当初の目的をはみ出し予想外の展開をするところに面白みがあるとも言えますので、私達の研究がそのような変貌を遂げることができるかどうかも楽しみの一つです。
そのためにもまずは、「学校的社会化」概念を明確にしなければなりませんが、なぜ「社会化」ではなく「学校的社会化」と、「学校的」という言葉を使用するのかを述べておきたいと思います。
一般に「社会化」とは、生まれたばかりの乳児が<人間(=ある言語共同体のメンバー)になる>過程を指示する概念ですが、それとの対比で「学校的社会化」を、一定の社会化が達成され言語的相互行為が不十分ながらも可能となっている社会のメンバー(≓子ども)が<児童になる>過程を指示する概念として位置づけたいと思います。というのも、学校空間のなかで要求される特殊な振る舞いや思考パターンを、「子ども」はどのように身につけ児童になっていくのか。そうしたパターンの獲得は、児童にとって、さらにはそれを要求する教師(=共同体や国家)にとってどのような意味を持つのか、といった問題について考えてみたいからです。
「児童」に着目する3つの理由
学校的社会化にとっての主たる研究対象は「児童」ということになりますが、私達が「児童」概念に注目する主な理由を3点ほど述べておきたいと思います。まず第一に、「児童になる」というのは人間の成長にとって必然の社会化過程ではないということです。「児童」という存在は、義務教育制度の成立とともに、言い換えれば「児童」概念の誕生とともに誕生したのであり、それ以前の社会には原理的に存在し得ない存在様式であるということです。そして第二に、「児童」なる存在には、行動様式においても思考様式においても、個々の子ども達の多様性を越えた一般的様式が存在するということです。その際、「児童らしさ」が生み出される過程は、「児童らしくない」存在が生み出される過程と表裏一体の関係と考えられますが、「児童らしくない」存在様態を名指すカテゴリーは、時代によって、様々に生成、消滅、変化が繰り返されてきており、戦後日本では、「非行少年」「不登校児」「発達障害児」などが代表的なものと言えるでしょう。そして、これら「児童らしさ」の欠如を示すカテゴリーとの対比のなかで「児童」概念が生成され維持されてきたと言えるのではないでしょうか。そして第三に、学校的社会化を担う存在としての教師が、「小さき存在」にどのような働きかけをすることで「児童」的存在が生み出されてきたのか、そして今も生み出されているのか、その時、教師達がいかなる方法を実践することで教師-児童生徒に特有の相互行為形式が繰り広げられるのか、そうした問いも重要になると思っています。